ありふれた悲劇とかけがえのない悲劇

ありふれた悲劇も個々人にとっては特別な、かけがえのない悲劇だということをなかなか実感はできないもので、世の中に溢れる辛気臭いニュースに対して、ボクの態度は顔をしかめてチャンネルを変えるだけだったりする。悲しくもないのに悲しいフリをするのは面倒だ。
ボクはボクで他人から見ればどうでもいいと思われるような悩みを恒常的に抱えているのだけれど、ボクがそういう態度を取っている以上、これを他人に理解してくれなどと訴えることはできないのだろうと諦めている。
たとえばボクが明日からいなくなっても、
たとえばボクが明日からいなくなっても、
たとえばボクが明日からいなくなっても、
関係のない人に悲しんでもらおうなんて思わない。ボクを知る大多数の人は無関心で、ボクに近しい人は僅かな人は少しだけ哀れんで、時間の経過で忘れるだろう。
自分の悲劇を他人に理解してもらおうなんて傲慢に過ぎる。他人の悲劇を理解しようという行いもまた。
…月も変わったし、なんとか日記を再開したいものです。